#32  市民電力連絡会代表 竹村さん

ボク達は2012年7月に市民の手によって電気を生み出す団体が集まって結成された活動団体、市民電力連絡会の代表を務める竹村さんに話を伺いに新宿に向かっていた。市民・地域主導での再生可能エネルギー発電事業を支援するための情報提供、政策提言、人材育成などを行う市民電力連絡会。エネルギーに関心を持つことで見えてきた問題点の数々。「静かな声」を積み上げていきましょう。歴史を変えるために・・。

—そもそもの竹村さんの最初は活動のきっかけはなんだったんですか?

竹村:最初は水俣病ですね。横浜市立大学出身なんですけど、新潟水俣病があって、昭和電工が有機水銀を垂れ流してたんですね。それを昭和電工側の証人として、嘘の証言をした横浜市大の生物の先生がいまして。自分らが教えを請うてる先生がそんなことしてたら問題ですよねと。その人を追及した所から始まってるんです。

—学生時代に作られたんですか?

竹村:学生時代です。福島博(フクシマヒロシ)知ってる?フクシマ糾弾委員会って云います。当時は水俣病のまだチッソの交渉をやっている所でチッソ本社は、まだ東京駅の前にあってチッソ本社の前にテント張って座り込みをやっていました。夜を徹して、ずっーと座ってますから。時々テントの中でお酒飲んでる。テントの中で、ずっと喋っている。学生ですからお酒飲んで。それが楽しいみたいな。その中から、カップルも生まれてる訳ですけども(笑。

—市民活動家みたいなことになっていったんですか?

竹村:そこから活動家みたいになっちゃいまして。だから本社交渉とかも立ち会ったんですよ。中で一緒に本社と交渉する。ナン億円か札束が積まれてて。こんなもん受け取らんというのもありましたよ。

—これで黙れということですか。すごいですね。

竹村:ナン億円札束、初めて見ましたよ。昔は、露骨に見せてやってたんですね。凄いなーと思いましたよ。

—その時は志を同じくした様な学生連合みたいな感じだったんですか?

竹村:学生連合というか、当時は水俣病を告発する会です。

学生時代から活動を開始

—市民団体になるのでしょうか?

竹村:告発する会自体は被害者も入ってたかもしれないですね。被害者と支援する人と。水俣病の被害者は体動かない人なので、介護が必要なんですよね。そのまま水俣病の水俣に作られた福祉施設みたいなそれを維持していく運動をその後ずっとしている人もいます。それはそれで福祉の大家みたいになっていて。僕らの交渉は妥結で一応は決まるわけですけども。一部の人はこんなの納得しないといって、まだ続けるんですけども大枠においては決まるわけですね。

—竹村さん別に応援して協力するけど補償を貰う立場ではない?

竹村:僕は一銭ももらわないです。

—そうですよね。本当に正義感だけだったんですね。

竹村:まあね若者ですからね。

熱い正義感がエネルギーの原動力

—今もそんな感じかなーと思って。

竹村:水俣が終わってですね。東京でも終わると水俣へ帰る訳なんですね。被害者の人たちが。そうすると水俣に福祉も含めて一緒に生活しながら支えて行こうというチームと、自分は水俣の人間ではない訳ですから、自分の住んでる所にも、そんな問題があるかもしれないから、そういうことをやって行こうというチームに分かれるんですよ。対立する訳ではなくて、それぞれの生活みたいな感じでね、いろいろな所に分かれて行って。僕は川崎に住んでいたので川崎の喘息です。公害がありましたから。それをやるのが自分の使命だろうなと。それで川崎の公害と取り組み始めたのが、次のステップなんですよ。

—自分の住んでるところの問題に対峙したわけですね。

竹村:川崎の公害を取り組み始めると、あれは、原因は、火力発電所でしょ。火力ですから。火力発電所を止めよう、あるいは減らそうみたいな。そういうことになる訳ですね。ところが、東電は増やそうって来た訳ですよ。まだ増やすって。だから、ダメですよって。それが液化天然ガスのLNGの発電所だったんですけど。色々危険でもあるし。必要ないし。そんなことを何年ぐらいやりましたかね。1978年ぐらいまでやったので、始まったのが73年、74年ぐらいから始まってますから。それで、その時に東電と犬猿の中になりましたね(笑。

—対立コードができちゃったと。

竹村:あいつだけは許さんと(笑。

—そん時は、竹村さん、どこかにお勤めだったんですか?

竹村:えーとね、うん。多分、勤めてたんじぁないかな(笑。

—普通のサラリーマンですか?

竹村:普通のサラリーマンだったんじぁないかなと思いますね。

—会社からは何も言われないんですか?「お前、なんか反対運動とかやってるみたいだけど」見たいな圧力とかはないんですか?

竹村:そこではなかったですけど。その後、会社をクビになったりするんです。1980年頃。スリーマイルアイランド事故の後ですね。柏崎刈羽原発の公開ヒアリングに対する地元の人たちの抗議行動があって、川崎の公害反対運動を一緒にやってた人から要請が来て応援に行ったんです。5000人ぐらいですかね、体育館みたいなのを取り囲んで、人がいる訳です。雨降ってますから下座れないんで立ってる訳です。傘さして前の晩から、ずっとやってる訳なんですよ。前の晩から7時、8時から夜通しね。僕が着いたのは終わり頃ですけど会場は人が入れない状況ですから。公開ヒアリングは開かれないで流れるんだろうなと思ってたら、朝の8時15分ぐらいに中から放送があって公開ヒアリングが成立致しました。なんか無事終了致しました。というアナウンスだったんですよ。何?とか思って。前の晩に体育館の中に地域の住民7人を泊まり込ませてたんです。それで、やって成立、終わり、みたいな。

—また汚いやり方ですね。

竹村:凄いでしょ。逆に言うと。それをつぶさに見たから、原発はそういうものなんだと。それまではよくわからなかったけど、確信したわけです。天然ガス火力の公聴会は公明正大に人いっぱい入れてやってるわけですが、原発はやらないでやったことにするみたいな。そんなインチキでしかできない原発はダメに決まってるわね。というね。それが僕の脱原発の出発点。そんなある日、横須賀で核燃料の搬出が行われるという情報が、どこからか不思議に来るんですよ。もの凄い秘密なんですけど。

—うんうん、すごい裏の情報ですね。

竹村:これが、なぜ来てたかというのは知ってるんですけど、あまり、公にしては、いけない。色々な人の運命に関わってくるので、、、、、、、。それで門の前に立って、激しい人は車の前に飛び出して、おまわりさんがたくさん来て、おまわりさんが見守る中で車は出て行くみたいな。大体、普通のパターンですよ。 まぁ面白くないじぁないですか。だから2、3回くりかえしているうちに、それなら車で追っかけようと。ちょっと行ったところから、ピタッと付けて、離されないようにずーっとね。核燃料追跡。その頃は、追っかけマンって呼ばれてました(笑。

核燃料追跡の追っかけマン

—はははは

竹村:ちょっと、箱型のバンみたいなので、そういうやつで。それで横断幕で「前の車は核燃料輸送中)って書いて貼っておくと、見えるじぁないですか、町中からこれ、もの凄く効果的な運動になったんですよ。

—それ、一回動画見た気がします!

竹村:それ、僕ですよ。

—それでパーキングに止まっている車にガイガーカウンターあててました。

竹村:昔はね本当にマスコミの方によく取材されていろいろ出てました(笑。

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